8 金剛山登り-1

断髪嶺

朗々たる蒼天をいただき、爽々たる清風に心を洗って、私は断髪嶺の峠を越えた。
この峠は金剛山の西側にあって英国領事キャメル氏の著した書物を見ると「路峻嶮にして登坂易しからず、荷物を鮮馬に預けて登ったなら、到底登ることはできない。 人夫を雇って馬に代えるべきである。道路は通らず、むしろ岩石や谷底を通り、木の根の交雑したところを行くべし。」 とあるが、私は難路峻道を選び、馬でどこまでも進んだ。

 
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どこまでも馬で通す

このあたりの樹種はとみると、樫、胡桃、楓、松柏の類が多く、青葉若葉の色新しく山腹を覆い、樹下は蘚苔が水を含み、特に懐かしきは谷間のヒメ百合やら桜草やらがたくさんに芳香を漂わせていることであった。
峠の頂につく。小さな古びた祠堂が淋しい。堂前に立って手を翳せば、足元は誠にこれ1幅の活パノラマである。
あるいは楊柳打ち煙って緑なるがあれば、春の日の光を受けて白く光る春の流れも見える。 私を中心としてこの大地が次第に低く、あるいは峰となり、岡となり、谷となり、野となり、果ては沖に寄せる波のごとく、どこまでも続いている。

美しい峠の風景

ああ、なんと美しいことか。麗しい。この山!この水!と叫びたくなる。
しかもこの峠は道俗両界の境であって、煩悩の帰郷を逃れ菩提の道を求めんとする者は必ず杖をこの峠に停めて思案にくれるとのことである。
この峠を越えれば、もはやルビコンを渡るも同然である。
待て、しばしこのまま引き返して俗界の快楽を貪ろうか、進んで生死の大事を悟り仏道をなすべきか。 目を放てば恩愛の契り浅からぬ妻子の住む古里は雲因模糊の間に隠れて見えぬ。
左を見れば金剛山の峰が高くそびえ不浄の者の往来を遮り、遠くの寺の鐘の音が厳かに響いて、凡夫の近寄るを威するようである。
断髪とは元来落飾の義のことである。綾羅錦繍を脱ぎ捨て、墨染の衣を着る意である。
いやしくもこの峠を向こう側に降りたら最後、妻が結んでくれた髷も、恋人に誇った漆黒の黒髪も断固として裁断しなければならぬそうだ。

長安寺

断髪嶺を東に降りる。道は羊腸奇嶮として木の根が縦横に走っている。峠を越すには登るべき岡もあれば下らねばならぬ谷もある。
そして岡には松風颯々、谷には流水鯵淙々。女人不浄の身ながら無垢法身を現して般若の境地にいる心地がする。
しばらくして広くてなだらかな道に落ち着いた。ここはもはやさる禅寺に近く、道は雲水の手によるものと合点した。
仰げば鬱蒼たる樹林霊地をはさみ、交わる枝の間から山門が見えている。門前には1河の流水矢のごとく諸行の無常相を現し、 これをくまなければ仏陀の慈光に浴することはできぬ。

山門到着

夕日が山嶺を照らし。渓谷に夜の色が次第に迫るころ、ようやく山門に到達した。本堂にはなお夕日が残っており、丹青の柱は古色を帯び、 老樹の林を背景として荘厳な姿を静寂のうちに現している。清らかな河の足元数丁のところに音を立てて、昼と夜の間を流れてゆくのが見える。
頭上の松柏には、深山の習いとして、すでに風に散るほどの霧を宿し、折々旅人の袖に間のごとく降りかかってくる。
木の精を飽和してその冷たさとともに芳香が身に染みると思うばかりである。
寺の名前を長安寺と呼ぶ。 未来永劫極楽浄土の幸福が宿るという意味である。 さればこそ堂塔伽藍は一切世界の煩累を避けて、幾世の昔以来寂漠として古雅な美術的建築を依然として残している。
境内に小峡あり、無数の石塔が並んでいるが、みなこれ僧堂の生活を送り、清貧に満足して入寂した聖徒の骸を埋めたものであり、何ともうら淋しい。

紅箭門

紅箭門をくぐる。くぐればすなわち長安寺。本堂、僧堂、鐘堂、厨裡、厠等大小の建物が目に入る。このほかに客殿や尼寺もあり、盲者、不具者、病人、廃疾院がある。
私は仏の慈悲にありがたく伏し拝した。

最終更新日: 2013-12-17 05:51:07

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